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2020年 12月 18日
『墨子の魚(ぼくしのうお)(二)』(全3回)
               (二)

 三日目の朝。
 父親の工房からは、もうなんの音もしなかった。
 婆やも、喪服を縫い上げていた。
 虎児の家はしんとして、反対に、村はひどく騒がしかった。
 みんなが棒や網をもって、人の家の池や水瓶、井戸までも浚っているのだ。
 虎児は母親の部屋を覗く勇気はなく、ひとり屋敷の裏の畑へ行った。
 裏の畑は、春先に流行り病で死んだ、王じいやが野菜を作っていた。じいやが死んでからは、ほったらかしで、じいやが植えた菜っ葉や瓜が、森のように伸び放題に繁っていた。
 虎児はもっと小さい頃から、畑のそばにしゃがんで、王じいやが耕したり、雑草を抜いたりするのを見ているのが好きだった。じいやは両目が白く濁って、殆どものが見えなかったが、誰よりもうまく畑を作った。
『坊ちゃんの目は、青いとな。空の色も、人とは違って見えるじゃろうて』
 そんなことを言って、熟れた瓜をもぎってくれた。
 今はとる人もいない瓜の茂みを分けていくと、畑のわきに大きな焼き物の缸が置いてあった。真っ黒な缸で、王じいやの“宝物”だった。
『これは、“墨子先生の墨壺”じゃ。えらい古いものと聞いておる』
 虎児が両腕に抱えるほどの缸だから、墨壺にしてはたいぶ大きい。突き出た口は狭く、下の方は瓜のように丸かった。その中には、墨ではなく、雨水が一杯たまっていた。
 虎児は、そっと中を覗いた。中の水は真っ黒で、ほんとうに墨のようだった。
 その中で──ちらりと、なにかが動いた。
 魚だった。

 去年の冬の終わり、夜中にひどい嵐があった。
 竜巻が起きて竜神廟の屋根が飛ばされ、大雨が降って沂水が溢れた。あちこちに雷も落ちた。
 翌朝は、きれいな青空だった。
 朝飯のあと、虎児が畑を見に行くと、じいやが缸を覗いていた。瓶の口から水がだくだくと溢れ、中でちいさな魚が泳いでいた。小指の先ほどの茶色いさかなで、金魚でも、めだかでもない。見たことのない魚だったが、特別な感じもしなかった。
 虎児が襟についていた朝飯の米粒を落としたら、喜んでついばんだ。
 どこからきたのか、空を見上げると、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。

 それから、虎児は毎朝、飯粒を運んで、缸に落とした。王じいやが死んだあとも、母親が病気になったあとも、それだけは忘れなかった。缸の中には、ほかにはなにも食べるものがないからだ。
 今日も虎児が缸を覗くと、魚は口まで浮かんできて、うれしそうに飯粒をついばんだ。
 冬よりも、いくらか大きくなったようだった。
 こんな平凡な魚が、みんなが探している“天の魚”のはずはない。万が一そうだったとしても、こんな小さな魚では、とてもみんなで食べるほどの肉はとれない。
 茂みの向こうから、誰かが覗いているような気がした。
 顔をあげても、誰もいなかった。

 村じゅうを家捜しをする人々の声が、嵐のように聞こえていた。
 虎児は自分の部屋に戻ると、しばらくぼんやりとしてから、机の上の本を開いた。父親から、毎日『墨子』を素読するよう決められている。もう三日も、その勉強を怠けていた。
 虎児は、今日の課題のところを声に出して読んだ。
「子墨子曰く──规矩をもって天下の方円を計りて、当たるものは是なり。当たらざるものは、非なり」
 三度読むと、なんとなく意味が分かった。
“この世界には、守るべき決まりがある。正しければ、正しくなり、間違っていれば、間違う”
 大工の仕事と同じことだ。いつも父親がしているように、慎重に図面を引き、正確に木材を計って切り、丁寧に表面を平らにして、あるべき順序で組み立てていく。家も、椅子も、小箱でも、それは同じだ。
『规矩をもって天下の方円を計りて、当たるものは是なり。当たらざるものは、非なり』
 虎児は本を閉じ、寝台に寝ころんだ。
(なにが正しいかなんて、定規で測るようには分からない。それだって、目には見えないじゃないか。なぜ、正しいかどうか分かるんだ)
 虎児は寝ころんだまま、天井を見上げた。父親が作った家は、どこかかも真っ直ぐで、ゆがみなく──美しかった。

 夕方、虎児は起き上がり、廊下に出て、母親の部屋を覗いた。
 母親は眠っていた。一昨日から、なにも口にしなくなっていた。
 虎児は、静かな声で母親に尋ねた。
「母さん、魚が食べたいかい」
「──食べたくない」
 母親は目を閉じたまま、ゆっくりと答えた。
「泣くんじゃないよ。別れは、いつかやってくる。その時は──笑ってお別れを言えばいいんだ」
 そして、ああ──と、おだかやな溜め息をついた。
「魚より、瓜の酢漬けが食べたい」
 そして、少しだけ指を動かした。虎児は、その指の下に、そっと自分の頭を差し入れた。虎児の頭をなでたいのに、母親には、もう腕をあげる力がないのだ。

       (続きは明日のブログへ)

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我々は決して負けない!! All Men Are Brothers      梁山泊一同

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by suiko108blog | 2020-12-18 00:00 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(0)


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