2020年 12月 17日
(一) 虎児の母親の命は、あと三日だと大夫が言った。 “大夫”といっても、医者ではない。 村はずれにある傾いた竜神廟に、いつの間にか住み着いていた老人だ。ねじくれたハシバミの枝を杖につき、ぼろぼろの布を腰に巻き付けて、女物の絹の帯で縛っていた。 髪も眉も真っ白で、顔つきや歩き方は、猫のような、狐のような、どことなく獣ぽかった。姓は“東方”と名乗り、そのため仙人だという者もいたし、ただの狂人だろうという者もいた。 それでも、実際にいくらかの米を供えて拝むと、失せ物が見つかったり、病が治ったりすることがあったので、人々は、なんとなく彼を畏れ、尊んだ。 そんな“大夫”の仙術を信じなかったのは、虎児の父親だけだった。 虎児の父親は、村では一番の“親方”だ。近隣の大工の頭領で、立派な屋敷、丈夫な橋、からくり箪笥、なんでも作れる。難しい本も読めた。 その父親も、傾いた机を修理するようには、母親の病は治せなかった。 父親は県城まで医者を呼びにやったが、どの医者を訪ねても留守だった。 この春先から、沂水に沿った村々で流行り病が起こり、どこもかも病人だらけだ。 始めは軽い熱が出て、風邪かと思う。そうしているうちに全身がだるくなり、吐いたり腹を下したりして食べ物を受け付けなくなって、半月あまりで衰弱して死んでしまうのだ。 いつも偉そうにしている村の旦那は病を恐れて街に逃げ出し、もっと偉そうにしていた街の役人は、大きな城へ逃げたと云う。あるいは、医者も逃げたのかもしれない。 だから、忠義者の婆やが“東方大夫”を呼びにやったのだ。 しかし、銭をひと包み御布施して、“諦め”を買ったようなものだった。 ねじくれた杖をついて帰っていく東方大夫を、虎児は柱の陰から見送った。向こうからは見えないと思ったのに、大夫は振り返って、ぎょろりとした目で虎児を睨んだ。 大夫の目は、人というよりも、おおきな獣のようだった。 大夫が帰ると、大人たちはひとしきり嘆いていたが、やがて諦め、葬式の準備を始めた。 母親の寝台のそばに残されたのは、十歳になる息子の虎児だけだった。 大夫の目は獣のようだったが、虎児もまた、人からは獣の子のように見られていた。 虎児は村の誰とも違って、金色の髪と、青い目をしていたからだ。 この家の先祖は、遠い西の国からやって来た、偉い将軍だったという。だから、時々、赤茶の髪や、褐色の目の子供が生まれる。しかし、こんな、虎のような黄色い毛並みの子、空のような目の色の子は、何百年も生まれていなかった。 父親が村では勢いのある人だったから、虎児をからかったり、いじめたりする者はいなかった。友達も、一人もいなかった。 母親は肝が据わった人で、いつも堂々と胸を張っていた。 「いいんだよ。お前は特別な子、先祖の将軍の生まれ変わりだ。将来は立派な将軍になるだろう」 そんな母親だから、流行り病にかかっても、けっして弱音は吐かなかった。 「あたしは絶対に治ります。虎児を残して、死ねますか」 それが、もう口もきけないほどになり、虎児の顔をじっとみつめて、ただ、涙をポロポロこぼした。 次の日。父親の工房からは、木材を切る音がしていた。 工房の前には、できたばかりの棺桶が五つも六つも並んでいる。 どれも、急ぎの注文があって、作ったものだ。その列に、間もなく母親の柩が加わるだろう。 虎児は家を飛び出した。 まだ夏なのに、どこもかも冬のように真っ白だった。喪服の白、弔いの幡の白。銭紙の白。村中が葬式だらけだ。線香が燃え尽きたあとの灰が、風にのって、地吹雪のように流れていった。 広場では、村人たちが東方大夫を囲んでいた。 「大夫さま、どうぞ病が収まる道をお示しください」 米や酒や野菜、菓子、肉、たまご、供え物が並べられていた。蝋燭、薪、布、鶏、鍋釜に布団にござ。なんでも積み上げ、村人たちは教えを請うた。 「魚がないぞ!」 大夫が突然、声をあげた。 「魚がなければ、病は治らん!」 宿屋をやっている張おじさんが、走って干し魚の束を持ってきた。 「これではない!」 王おばさんが、鯉をたらいに入れて持ってきた。 「これではない!」 みんなは顔を見合わせた。 「どんな魚をご所望で?」 「天の魚だ! 金色で、竜のように大きく、人間の言葉をしゃべる!」 「その魚は、どこにおりますか」 「しらん!」 大夫は持てるだけのお供えを抱えて、よろよろと廟に帰っていった。 天の魚を食べれば、病が治る──すぐに魚探しがはじまった。 村中の池、小川にため池、あらいざらい探したが、そんな魚はいなかった。 沂水の魚市場が荒らされ、畑のため池から水が抜かれ、李家のおじょうさんが飼っていた黄色い金魚も殺されてしまったそうだ。 李家のおじょうさんは優しい人で、虎児もお菓子をもらったことがある。おじょうさんは可愛がっていた金魚を守ろうとして、てんびん棒でなぐられて死んでしまった。親が役所に訴えて、殴った鍛冶屋は街の牢屋に入れられた。 「ばかばかしいことだ」 虎児の父親は体格のいい人で、怒ると本当の虎のようだった。 墨家の流れをくむ大工なのを誇りにしていて、『墨子』を暗唱して、虎児にも教える。 「“これ天下の有ると無きとを察知する道をあぐるに”」 いつもそうやって引用する。 「まことにこれを聞き、これを見ることあらば、すなわち有となし、聞くことなく、見ることなければ、すなわち必ずもって無しとなす──つまり、ものの有る無しを判断するには、その姿を見た者、その声を聞いた者がいるかいないかで判断するのだ。いなければ、それは実在しない。誰が天の魚の姿を見た。だれが天の魚の声を聞いた」 父親は、憤慨してばあやを呼んだ。 「県城の医者はまだ来ないのか」 「昨日も門番の老劉がお屋敷に行きましたが、このごろ病人が多くて、なかなか順番が回ってこないと」 父親はまた工房にこもり、材木に釘を打つ音を響かせはじめた。 婆やも喪服の続きを縫いに戻り、虎児は家から逃げ出した。 逃げても、村も地獄のようだった。天の魚を食べれば病にならない──人々は病人も棺桶もほうりだし、天の魚探しに血眼だった。 翌日には、とうとう近隣の村人が集まって、沂水を塞き止める騒ぎになった。 虎児が川まで見に行くと、両側から網で囲って、魚をあらいざらい捕まえていた。魚たちは逃げまどい、沂水が真っ白に泡立っていた。網は、何度も投げられた。 虎児の足元に、岸に投げ出された小さな魚が落ちていた。見回すと、もう少し大きな魚、抱えるほど大きな魚、たくさんの魚が死んでいた。 その魚を、拾って食べようとする者はいなかった。大夫があの予言をしてから、村では魚を食べるものはいなかった。魚料理のにおいがすると、こっそりと天の魚を食べて自分の家だけ助かるつもりだ──と、責められたのだ。 虎児は死んだ魚をすくいあげ、大騒ぎする皆から離れて、一匹ずつ水に戻した。 しかし、死んだ魚が生き返るはずもなく、そのまま、白い腹を見せて流れていった。 そこまでしても、天の魚は見つからなかった。 「きっと誰かが隠しているんだ!」 村の男たちが叫んでいた。 「一軒一軒、家捜しだ! 全部の池と水瓶を調べるぞ!」 声高に叫ぶ村人たちの顔が、鬼のように醜く見えた。 (続きは明日のブログへ) 絵巻水滸伝第二部書籍と第一部書籍新装版のお求めはこちら! 被害に遇われた皆さまに、心よりお見舞い申しあげます。被災地の復興をお祈り致します。
by suiko108blog
| 2020-12-17 00:00
| 絵巻水滸伝・外伝
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Comments(4)
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この外伝、テンション上がります!官軍時代と梁山入り後で職種が全然違い、絵巻ではその背景が墨家、ていう設定がクールだと思ってました。諸子百家でも、なんだか味があって正体がよくわからなくて(映画の墨攻も)好きです。
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こんばんは。
墨子の魚(一)拝読しました。 ありがとうございます。 虎児・・・墨子・・・そうなんですねぇ。 野村さんもおっしゃられたように水滸伝の 中でも謎の多いアニキの外伝ですねぇ。 この状況でどんな活躍を見せるか愉しみです。 PS.雲海は天の魚、むか~しの話で恐縮ですが 人面魚を思い出してしまいました。 まだ、ご存命なんでしょうか。
> 野村さん
こんにちは! コメントありがとうございます。テンション上がっていただいて、とても嬉しいです! 彼も、墨家も、謎だらけですよね。『墨子』も難しいし……。でも、そこがまた今もなお人を引きつけてやまない魅力になっているのかもしれませんね。 クールでミステリアスな彼の物語、楽しんでいただけますように!
> 雲海さん
おはようございます。冷え込んできましたね。 彼は、ほんとうに不思議な存在。席次も地煞星の下のほう、李立と焦挺の間ですからね……。でも、なぜか一目置いてしまう。李逵を止めたり、朱富の師匠だったり、かと思えば土木。しかも金髪碧眼。人面魚なみに謎な生き物(?)です。そういえば、最近もニュースで人面魚みましたよ。いまもヒッソリと棲息している?天の魚、人面魚だったりして……シーマンとかもいましたね。なつかしい! |
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