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2014年 01月 09日
鬼礬楼の鬼(三)
                  (三)

“鬼”は鬼礬楼の最上階に忍び込むと、“老板”を起こさぬように注意しながら、欄干を足場に屋根に登った。ここが“無憂洞”で一番高い場所だった。
 思いきり腕を伸ばすと、何か平らでざらざらした堅いものに触れた。これが“天”、無憂洞の“涯て”なのだ。
 指先に、かすかな震動が伝わってくる。背伸びをして耳をつけると、混雑した宴会場のような音が遠く聞こえた。
 光の漏れるわずかな隙間に指をいれると、重い石がごとりと動いた。
 途端に真っ白な光が差し込んで、目がくらみ、“鬼”は屋根から滑り落ちた。“老板”が起きてくるかと思ったが、鬼礬楼はまだ静まり返っている。
“鬼”は腰をさすりながら、逃げるように階段を下りていった。
 頭の上に、おそろしい世界が広がっている。
 無憂洞中の光を集めたよりも、強烈な光が満ちた世界だ。
 そこは──どんな恐ろしい“地獄”だろうか。

 しかし、次の日も、“鬼”は鬼礬楼が寝静まると屋根に登った。
 用心しながら“天”の石をずらしたが、今日は少しも眩しくなかった。湿った空気が流れ込んできて、差し込む光は灰色だった。
 その空気を、世界の色を、“鬼”は、なぜか知っているような気がした。

 翌日も、上の世界は曇りだった。
“鬼”は思いきり背伸びをして、“天”の裂け目から首を出した。頭が半分ほど出た。そこは、もう使われていない、古い側溝のようだった。目の前には植え込みがあり、その向こうは一丈ほどの幅の道になっている。路傍には白い土壁が続いていて、見えるものは、それだけだった。

 四日目、“鬼”はいつも通り“老板”に夕食を運び、その帰り、ふと“天”の方へ目をやった。
“鬼”の耳はするどい。いつも、こちらの世界が賑わいだすころ、上の世界は静かになる。しかし、今日は賑やかな気配が伝わってきた。今までなら、“下”の音か、“上”の音か区別もつかず、特に気にもしなかっただろう。
“鬼”は盆を床に置くと、屋根に登った。すっかり慣れて、音もなく登れるようになっていた。
 隙間から覗いてみると、いつになく大勢の人が行き交っていた。みな手に灯籠を持っている。元宵節の灯籠祭だ。話には聞いたことがあるけれど、無憂洞に月は出ないから、満月の灯籠祭をやることはない。
 白壁にもいくつもの灯籠がさがり、人々が楽しげに歩いている。なんだ──と“鬼”はがっかりした。こうして見ると、上の世界も無憂洞と変わらない。
 厨房に戻ろうとして、“鬼”はぎょっとして凍りついた。
 目の前の植え込みの向こうから、棗のような二つの目が、じっと“鬼”を見つめていたのだ。

 それから何日か、“鬼”は屋根に登らなかった。
 地上の“鬼”は、おそろしいほど大きな目をして、手には何か真っ赤なものを持っていた。“鬼”はすぐに穴の中に逃げ込んだが、しばらく心臓が波うっていた。階段を駆け下り、厨房に戻っても、まだあの目が自分を見つめているようで、“鬼”は何度も後ろを窺った。
 あんなおそろしい目をしたものは、この無憂洞にもいやしない。
 上には、別の種類の“鬼”がいるのだ。
“老板”や“師傅”が言うように、やはり恐ろしい世界に違いなかった。
 それなのに、“上”を見ない日は、料理を作っていても味気なかった。実際、春餅のたれの味付けに失敗し、久しぶりに“師傅”に殴られた。

 殴られた日、“鬼”はまた屋根に登った。
 勇気を出して顔を出すと、光ではなく、冷たい水が顔に当たった。
 雨だった。
 空から降る水のことは、話で聞いたり、絵で見たりしていたが、無憂洞にはないものだ。“鬼”は思いきり伸び上がり、いつもより遠くを眺めた。それでも、見えるものはなにもなかった。
 穴のふちにぶら下がり、“鬼”は、“師傅”の竈につり下げられている家鴨みたいだ──と哀しくなった。
“鬼”は、腰に差した包丁へ手をやった。包丁を研いでいる途中で“師傅”に呼ばれ、そのまま差しっぱなしになっていたのだ。
“鬼”は包丁を抜き、外に向かって力いっぱい投げつけた。
 包丁は植え込みを飛び越え、まっすぐ道を横切って、向こう側の壁につき立った。
 雨に濡れる白壁に、自分の包丁が立っている。
 それを確かめると、“鬼”はなぜか嬉しくなった。

 翌日、“鬼”は自分の包丁がまだあるか、浮きたつような思いで外を覗いた。
 地上では、まだ夜があけたばかりで、薄暗かった。しかし、それでも無憂洞の暗さとはまったく違った。
 冷たいが、きれいな風が吹いていた。
 包丁は、見えなかった。その代わり、昨日、包丁を投げたあたりに人が立っていた。
 深緑の袍を着た、背の高い男だった。腰には剣を吊っていた。
 こちらに背を向けて立っていたので、顔つきは分からなかったが、背筋をぴんと伸ばして立ち、壁の前に佇んでいる。
“鬼”は、その人をずっと見つめていた。こっちを向かないかと思ったが、やがて、ちらりと横顔を見せただけで、その人は行ってしまった。
 昨日とは打って変わって、ひどくがっかりした気分で、“鬼”は階段を下りていった。
 裏口には、まだ残飯の籠が置きっぱなしになっていた。急いで“黒河”のほとりへ捨てにいくと、数日、見ぬ間に、あの花が枯れかけていた。首をたれ、花も葉も汚くしおれはじめている。
“鬼”は誰かに助けを求めるように、きょろきょろとあたりを見回した。
 無憂洞は、もう“夜”だ。街の灯が、ひとつふたつと消えていく。地下の世界に、本当の闇が戻ってくるのだ。
 一日の仕事を終えて、“鬼”は疲れ果てていた。しかし、そのまま足音を忍ばせて、もう一度、鬼礬楼の階段を登っていった。三階まで登り、欄干伝いに屋根へと登り、“鬼”は“天”に手をかけた。
 花には光が必要なのだ。
“鬼”は“天”をふさぐ石を一枚とりのぞき、隙間を大きく広げると、厨房のねぐらに戻り、安心して眠りについた。
 その夜は、花園の夢を見た。
 絵の中でしか見てたことのない花園にいて、かいだことのない匂いをかいだ。不思議な光に包まれて、きれいな風が吹いていた。
 その夢の花園から、“鬼”は力ずくで闇の中へ引きずり出された。
「お前、“天”に穴をあけたな!」
“鬼”は“師傅”に叩き起こされ、思いきり拳で殴りつけられた。竈の角に額をぶつけ、血が流れた。
 見上げると、“師傅”は、地獄の鬼のようだった。後ろには、給仕や他の料理人や、鬼礬楼の男たちが鬼卒のように並んでいた。
 襟首を掴まれ、“鬼”は“老板”の部屋に連れて行かれた。踊り場から見上げると、真っ黒な“天”の一角が、はっきりと瑠璃色に切り取られていた。
“上”の世界はもう朝なのだ。
“老板”はめったに出ることのない部屋を出て、回廊からその瑠璃色を見上げていた。
「せっかく黙っていたやったのに、やりすぎたな」
 つれてこられた“鬼”に振り返り、“老板”はため息をついた。
「ここは、上の奴らには“ない”ことになっている。それが互いのためなのだ」
“鬼”は、必死に話そうとした。しかし、一言の言葉もでなかった。
「上の奴らは闇を恐れ、こう明るくては、我らは安心して眠ることもできぬ」
“老板”は、“師傅”の方に片手をもたげた。
「穴をふさげ」
“鬼”は後ろから自分を抑えている番頭の腕を振り払った。欄干から屋根に登ろうとしている片目の給仕の足を掴み、引きずり下ろした。押さえつけようとする男たちに掴みかかり、“鬼”はがむしゃらに拳を振るった。包丁しか握ったことのない腕が、人に当たって、痛みを感じた。押さえつけられた腕に噛みつくと、血の味がした。声のない喉をふりしぼり、“鬼”は叫んだ。
 怒りか、恐怖か、救いを求める声なのか、声なき声で絶叫し、そして“鬼”は思い出した。
 ずっと昔──曇った日だった。
 家の石段の前で、彼はひとりで遊んでいた。すると見知らぬ女がやって来て、笑いながら手招きした。彼は悩み、とまどいながら、女が手に持つ赤いものに引きつけられて、後をついていったのだ。そのまま誰もいない野原で腕を掴まれ、籠の中に押し込められた。必死で暴れ、家に帰ろうと叫び続けた。
 しかし、口を縛られて、頭上で蓋は閉められた。
 最後に見たのは、どこまでも続く、涯てのない灰色の“天”だった。

“鬼”は男たちを突き飛ばし、欄干へ登って屋根に手をかけた。“師傅”が怒鳴った。
「ひきずりおろせ!」
 廂に上げようとした脚を誰かに掴まれた。それを蹴りつけ、渾身の力を奮って屋根にのぼった。脚を掴もうとする者達を蹴り落とし、這いつくばって屋根を登った。瓦が音をたてて落ちていく。見上げた隙間の瑠璃色は、もうすっかり消えていた。夜は明けたのだ。“天”の隙間へ、“鬼”は思いきり腕を伸ばした。
「やめろ!」
 制止する男たちの声に抗い、“鬼”は、穴のふちに手をかけた。その脚に縄がかけられて、倒れそうになった時、虚空に向かって伸ばした腕を、誰かが掴んだ。

 強い力で側溝の穴から引き出され、“鬼”は地上に転がり出た。
 眩しさに目が眩み、そのまま倒れた。光が目を刺すようだった。目を閉じていても、その光は容赦なく“鬼”の中へ押し寄せた。
「どうした」
 すぐそばで声が聞こえた。
「具合が悪いのか?」
 その声に引かれるように、“鬼”は少しずつ、ゆっくりと瞼をあけた。
 光はまぶしく、痛いほどだ。
 地獄の火より、なお峻烈なまぶしさだった。
 しかし、“鬼”は目を見開いた。顔を覆っていた手を解くと、真っ白な光の中に、自分を覗き込んでいる人影が、ぼんやり見えた。
 やがて、影はゆっくりと像を結んだ。
 静かな眼差しで“鬼”を見守っているのは、深緑の袍を着た若い武人、壁に立った包丁を見つめていた人だった。
「蘭児、この人か」
 その傍らでは、ひとりの少女が微笑んでいた。
「ね、ほんとうだったでしょ、林兄さま」
 棗のような大きな瞳の少女だった。灯籠祭の日に見た、あの“鬼の目”だ。道に倒れたままの“鬼”の前に、少女は嬉しそうにしゃがみこんだ。
「わたし、“鬼”を見たって言ったのに、お父さまも陸さんも、信用してくれなかったの。でも、わたしも間違ってたわ」
 少女は笑って、手にした花のようなものを差し出した。
「ごめんなさい、“鬼”じゃなかった」
 それは赤い蜜をかけた山査子の串菓子だった。
 この上の世界で最後に見た、つやつやと輝く赤いもの──。
 いま再び、それに手を伸ばし、“鬼”は、光の中に立ち上がった。

 空が青い。
 それが空という名であることを、この時、まだ“鬼”は知らない。
 雲ひとつない青空というものを、初めて見たのだ。
 地下深くから、闇に残された鬼たちの声が聞こえた。
「行きやがれ──」
“天”は閉じ、それは地となった。
 地を踏んで、“鬼”は、光の中へ出て行った。


 陸游『老学庵筆記』に曰く──“京師ノ溝渠ハ極メテ深ク広大ニシテ、逃ゲ隠レタル者、甚ダ多シ。自ラ称シテ、此レヲ無憂洞ト為ス”

 繁華を極める東京開封地下の暗渠には、鬼礬楼と呼ばれる料亭がある。
 その厨房の奥の壁には、今も、一本の錆びた包丁が架かっている。“師傅”の竈には火が燃えて、次々と料理が作られる。
 最上階には“老板”が住み、月ごとに無人の宴が繰り返される。
 裏口の“黒河”のほとりには、一条の細い光が差し込み、名もなき一輪の花が咲いている。
 しかし、もう鬼礬楼の“鬼”はいない。
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by suiko108blog | 2014-01-09 00:00 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(6)
Commented by はっけよい at 2014-01-09 19:56 x
読ませていただきました。
操刀鬼のルーツがこんなだったとは・・・
そして、陸様って異様に懐かしい名前にグッときました。
次の外伝も楽しみにしています。
Commented by suiko108 at 2014-01-09 21:31 x
はっけよいさん
コメントありがとうございます!
まさに絵巻読者だけに分かるツボですよね……。
好漢たちには、まだまだ明かされていない物語があるようでから、次の外伝企画をたのしみにお待ちください!

Commented by 雲海 at 2014-01-09 21:44 x
こんばんわ。
初春からいい読み物ありがとうございます。
鬼関連の好漢はまぁ3人おりまして、料理人の話のようだから・・・
と思ったらやはりでした!
なんともすごい過去を持っていたんですねぇ。彼の目が昏い理由が
わかりました。
この地下世界なんとも毒々しく・・・でも魅力的ですねぇ。
気になるのは・・・五毒皇后です。再登場しませんかねぇ~。
絵巻水滸伝・・・地下世界のように奥が深いですねぇ。
外伝企画愉しみに待ってます!
Commented by suiko108 at 2014-01-10 09:34 x
雲海さん
おはようございます。今朝もさむいですね。
外伝、お楽しみいただけたなら良かったです!
この曹正と林冲の出会いが、1巻につながるわけですね……
五毒皇后はじめ地下世界の面々にも、色々とお話がありそうですから、いつかどこかで登場するかも?
ご期待ください!
Commented by 水滸無双 at 2014-01-12 10:45 x
こんにちは。
いやぁ久々の外伝面白かったです。
普段あまり目立たない地サツ星の面々にも深いドラマがあるんですねぇ。個性的ではありますが...
それにしても曹正は話さないんじゃなく話せなかったんですね。
地下世界...今でも本当にありそうな感じがしますねぇ。ちょっと怖いですが。
また外伝企画楽しみにしてます。次は誰にスポットがあたるのか?
ではでは。
Commented by suiko108 at 2014-01-12 16:13 x
水滸無双さん
コメントありがとうございます!
曹正はしゃべれないので、林冲も二竜山の仲間たちも、誰も知らないお話なんですよね……曹正、なんだかいじらしいです!
そういえば外伝は地サツ星ばかりでしたね。次もきっと……リクエストもお待ちしています!
(実現するかどうかはM先生しだいですが……)


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