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2009年 08月 12日
張順と張順(二)
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        『張順の物語』(其の二)

 十年の籠城にも耐えられると言われていた襄樊城の蓄えは、武器糧食に関しては十分だったが、塩や麦藁、絹布などが不足し始めていた。(注;襄樊とは襄陽と樊城、二つの城の総称)
 樊城では水練に長けた勇士を選び、城外に援軍を請いに行かせることにした。使者は蝋で固めた密書を髷の中に隠し、樊城から漢水に泳ぎ出た。しかし、見張りの元軍に発見されて捕らえられ、使命を果たすことはできなかった。
 そして三月、元軍(注;モンゴルが北中国に建てた王朝)は樊城の外城壁を破り、ついに城内に侵入した。二千余人の戦死者を出した戦いのすえ、樊城守備軍は外城を捨て、内城に撤退することを余儀なくされた。樊城の命運は旦夕に迫っていた。
 見かねた李庭芝(注;南宋軍の将軍)は、なんとかして補給を行おうと、襄陽、テイ州地域から民兵を募ることにした。
 集まったのは、死をも厭わぬ三千人の男たちだった。多くが山岳地方の勇敢な若者で、指揮官には、彼らがその知勇に心服している、“竹園張”張順、“矮張”張貴の二人が選ばれた。
 李庭芝は、彼らに莫大な報酬を与えることを約束した。
 そして、二十四日。夜。
 闇に包まれた漢水の上流にあたる北の支流に、軽舟百余叟が集結した。船は三隻ごとに繋がれ、中央の船に塩と布帛、両側の船には槍や弩で武装した決死の男たちが乗り込んだ。
 出撃にあたり、張順、張貴は男たちの前に立って言った。
「ただ死あるのみ!!」
 一行は襄陽の西北、清泥河を出発した。范文虎(注;南宋軍の将軍)の甥で、京湖制司の范天順が同行した。
 彼らは夜陰に乗じて漢水に漕ぎ入った。張貴が先に立ち、張順が殿をつとめた。やがて元軍の囲みに突入、戦闘が始まった。 (明日につづく)      
     
    森下翠・著『元宋興亡史』(学研M文庫)より抜粋  
  
       絵巻水滸伝(第5巻)  

by suiko108blog | 2009-08-12 01:54 | Suiko108 クロニクル | Comments(0)


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