“双鞭”呼延灼(そうべん こえんしゃく)
官軍の将であった呼延灼は、二本の鋼鞭を使うことから“双鞭”と呼ばれます。卓越した統率力を発揮する歴戦の名将であり、軍規を重んじ、脆弱な官軍の中にあって、その率いる軍は無敵。“軍神”とも尊称されました。
彼は、宋朝建国の功臣、呼延賛の末裔です。呼延賛は太原(現在の山西省)の人。若くして騎兵軍の兵卒になり、その武勇を宋の太祖に見いだされ、班長から軍使、軍校、鉄騎軍指揮使と出世していきます。戦では先鋒となり、敵城に一番乗りし、その後も軍職を歴任します。文字通りたたき上げの軍人で、権勢や財貨には執着せず 、死ぬ寸前まで軍人としての務めを果たしました(紀元1000年没)。
呼延灼は心臓の上に『赤心殺賊』の刺青をしていますが、これは呼延賛がその身に刺青していた言葉です。その妻子はもちろん、奴婢にいたるまで同じ刺青をさせていました。その伝統が呼延灼の代まで連綿と受け継がれて来たのです(すると、剣娘や双子の妹たちもどこかに刺青をしているのでしょうか。もしかしたら、韓滔、彭 キも……)
さらに息子たちは、これとは別に耳の後ろに、「出門忘家為国、臨陣忘死為主」(門を出ては国家のために家を忘れ、陣に望んでは主のために死を忘れる)と刺青していました。太祖の深い恩愛に感じた呼延賛は、呼延家が永遠に国家に報いることだけを願う家であれと望んでいたのでしょう。
とはいえ、呼延賛は勇敢ではありましたが、豪快ゆえに少し軽率なところもあり、人を驚かすような行動を好む人物で、沈着冷静、謹厳な呼延灼とはだいぶ趣が違ったようです。破陣刀、降魔杵、鉄頭巾といった重さ数十斤の武器で身をかため、常に「わしは敵中で死ぬぞ」と言っていました。建国の気運をまとった、あくまで無骨 な武辺であったのです。
彼の教育方法も、また無骨もなのでした。呼延賛には四人の息子がいましたが、真冬でも幼い子供たちに冷水で沐浴させ、体を鍛えさせました。一方で、子供が病気になった時には、薬になるということで、自分の股肉を割いて羹を作り、与えたというエピソードも残っています。
呼延賛が死んでから百余年、宋国も、宋国の官軍もすっかり様相を異にしています。
しかし、呼延灼と呼延賛は、同じ夢を抱いています。それは、戦場で死ぬこと──です。呼延賛は、その夢を果たすことができませんでした。おそらく老年に入っていたであろう呼延賛の最後の仕事は、戦ではなく、皇太后陵の警備であったからです。
軍神──“双鞭”呼延灼。彼の望みは、はたして叶うことになるのでしょうか。
絵巻水滸伝(7)