カテゴリ:絵巻水滸伝・外伝( 4 )

2014年 01月 09日
鬼礬楼の鬼(三)
                  (三)

“鬼”は鬼礬楼の最上階に忍び込むと、“老板”を起こさぬように注意しながら、欄干を足場に屋根に登った。ここが“無憂洞”で一番高い場所だった。
 思いきり腕を伸ばすと、何か平らでざらざらした堅いものに触れた。これが“天”、無憂洞の“涯て”なのだ。
 指先に、かすかな震動が伝わってくる。背伸びをして耳をつけると、混雑した宴会場のような音が遠く聞こえた。
 光の漏れるわずかな隙間に指をいれると、重い石がごとりと動いた。
 途端に真っ白な光が差し込んで、目がくらみ、“鬼”は屋根から滑り落ちた。“老板”が起きてくるかと思ったが、鬼礬楼はまだ静まり返っている。
“鬼”は腰をさすりながら、逃げるように階段を下りていった。
 頭の上に、おそろしい世界が広がっている。
 無憂洞中の光を集めたよりも、強烈な光が満ちた世界だ。
 そこは──どんな恐ろしい“地獄”だろうか。

 しかし、次の日も、“鬼”は鬼礬楼が寝静まると屋根に登った。
 用心しながら“天”の石をずらしたが、今日は少しも眩しくなかった。湿った空気が流れ込んできて、差し込む光は灰色だった。
 その空気を、世界の色を、“鬼”は、なぜか知っているような気がした。

 翌日も、上の世界は曇りだった。
“鬼”は思いきり背伸びをして、“天”の裂け目から首を出した。頭が半分ほど出た。そこは、もう使われていない、古い側溝のようだった。目の前には植え込みがあり、その向こうは一丈ほどの幅の道になっている。路傍には白い土壁が続いていて、見えるものは、それだけだった。

 四日目、“鬼”はいつも通り“老板”に夕食を運び、その帰り、ふと“天”の方へ目をやった。
“鬼”の耳はするどい。いつも、こちらの世界が賑わいだすころ、上の世界は静かになる。しかし、今日は賑やかな気配が伝わってきた。今までなら、“下”の音か、“上”の音か区別もつかず、特に気にもしなかっただろう。
“鬼”は盆を床に置くと、屋根に登った。すっかり慣れて、音もなく登れるようになっていた。
 隙間から覗いてみると、いつになく大勢の人が行き交っていた。みな手に灯籠を持っている。元宵節の灯籠祭だ。話には聞いたことがあるけれど、無憂洞に月は出ないから、満月の灯籠祭をやることはない。
 白壁にもいくつもの灯籠がさがり、人々が楽しげに歩いている。なんだ──と“鬼”はがっかりした。こうして見ると、上の世界も無憂洞と変わらない。
 厨房に戻ろうとして、“鬼”はぎょっとして凍りついた。
 目の前の植え込みの向こうから、棗のような二つの目が、じっと“鬼”を見つめていたのだ。

 それから何日か、“鬼”は屋根に登らなかった。
 地上の“鬼”は、おそろしいほど大きな目をして、手には何か真っ赤なものを持っていた。“鬼”はすぐに穴の中に逃げ込んだが、しばらく心臓が波うっていた。階段を駆け下り、厨房に戻っても、まだあの目が自分を見つめているようで、“鬼”は何度も後ろを窺った。
 あんなおそろしい目をしたものは、この無憂洞にもいやしない。
 上には、別の種類の“鬼”がいるのだ。
“老板”や“師傅”が言うように、やはり恐ろしい世界に違いなかった。
 それなのに、“上”を見ない日は、料理を作っていても味気なかった。実際、春餅のたれの味付けに失敗し、久しぶりに“師傅”に殴られた。

 殴られた日、“鬼”はまた屋根に登った。
 勇気を出して顔を出すと、光ではなく、冷たい水が顔に当たった。
 雨だった。
 空から降る水のことは、話で聞いたり、絵で見たりしていたが、無憂洞にはないものだ。“鬼”は思いきり伸び上がり、いつもより遠くを眺めた。それでも、見えるものはなにもなかった。
 穴のふちにぶら下がり、“鬼”は、“師傅”の竈につり下げられている家鴨みたいだ──と哀しくなった。
“鬼”は、腰に差した包丁へ手をやった。包丁を研いでいる途中で“師傅”に呼ばれ、そのまま差しっぱなしになっていたのだ。
“鬼”は包丁を抜き、外に向かって力いっぱい投げつけた。
 包丁は植え込みを飛び越え、まっすぐ道を横切って、向こう側の壁につき立った。
 雨に濡れる白壁に、自分の包丁が立っている。
 それを確かめると、“鬼”はなぜか嬉しくなった。

 翌日、“鬼”は自分の包丁がまだあるか、浮きたつような思いで外を覗いた。
 地上では、まだ夜があけたばかりで、薄暗かった。しかし、それでも無憂洞の暗さとはまったく違った。
 冷たいが、きれいな風が吹いていた。
 包丁は、見えなかった。その代わり、昨日、包丁を投げたあたりに人が立っていた。
 深緑の袍を着た、背の高い男だった。腰には剣を吊っていた。
 こちらに背を向けて立っていたので、顔つきは分からなかったが、背筋をぴんと伸ばして立ち、壁の前に佇んでいる。
“鬼”は、その人をずっと見つめていた。こっちを向かないかと思ったが、やがて、ちらりと横顔を見せただけで、その人は行ってしまった。
 昨日とは打って変わって、ひどくがっかりした気分で、“鬼”は階段を下りていった。
 裏口には、まだ残飯の籠が置きっぱなしになっていた。急いで“黒河”のほとりへ捨てにいくと、数日、見ぬ間に、あの花が枯れかけていた。首をたれ、花も葉も汚くしおれはじめている。
“鬼”は誰かに助けを求めるように、きょろきょろとあたりを見回した。
 無憂洞は、もう“夜”だ。街の灯が、ひとつふたつと消えていく。地下の世界に、本当の闇が戻ってくるのだ。
 一日の仕事を終えて、“鬼”は疲れ果てていた。しかし、そのまま足音を忍ばせて、もう一度、鬼礬楼の階段を登っていった。三階まで登り、欄干伝いに屋根へと登り、“鬼”は“天”に手をかけた。
 花には光が必要なのだ。
“鬼”は“天”をふさぐ石を一枚とりのぞき、隙間を大きく広げると、厨房のねぐらに戻り、安心して眠りについた。
 その夜は、花園の夢を見た。
 絵の中でしか見てたことのない花園にいて、かいだことのない匂いをかいだ。不思議な光に包まれて、きれいな風が吹いていた。
 その夢の花園から、“鬼”は力ずくで闇の中へ引きずり出された。
「お前、“天”に穴をあけたな!」
“鬼”は“師傅”に叩き起こされ、思いきり拳で殴りつけられた。竈の角に額をぶつけ、血が流れた。
 見上げると、“師傅”は、地獄の鬼のようだった。後ろには、給仕や他の料理人や、鬼礬楼の男たちが鬼卒のように並んでいた。
 襟首を掴まれ、“鬼”は“老板”の部屋に連れて行かれた。踊り場から見上げると、真っ黒な“天”の一角が、はっきりと瑠璃色に切り取られていた。
“上”の世界はもう朝なのだ。
“老板”はめったに出ることのない部屋を出て、回廊からその瑠璃色を見上げていた。
「せっかく黙っていたやったのに、やりすぎたな」
 つれてこられた“鬼”に振り返り、“老板”はため息をついた。
「ここは、上の奴らには“ない”ことになっている。それが互いのためなのだ」
“鬼”は、必死に話そうとした。しかし、一言の言葉もでなかった。
「上の奴らは闇を恐れ、こう明るくては、我らは安心して眠ることもできぬ」
“老板”は、“師傅”の方に片手をもたげた。
「穴をふさげ」
“鬼”は後ろから自分を抑えている番頭の腕を振り払った。欄干から屋根に登ろうとしている片目の給仕の足を掴み、引きずり下ろした。押さえつけようとする男たちに掴みかかり、“鬼”はがむしゃらに拳を振るった。包丁しか握ったことのない腕が、人に当たって、痛みを感じた。押さえつけられた腕に噛みつくと、血の味がした。声のない喉をふりしぼり、“鬼”は叫んだ。
 怒りか、恐怖か、救いを求める声なのか、声なき声で絶叫し、そして“鬼”は思い出した。
 ずっと昔──曇った日だった。
 家の石段の前で、彼はひとりで遊んでいた。すると見知らぬ女がやって来て、笑いながら手招きした。彼は悩み、とまどいながら、女が手に持つ赤いものに引きつけられて、後をついていったのだ。そのまま誰もいない野原で腕を掴まれ、籠の中に押し込められた。必死で暴れ、家に帰ろうと叫び続けた。
 しかし、口を縛られて、頭上で蓋は閉められた。
 最後に見たのは、どこまでも続く、涯てのない灰色の“天”だった。

“鬼”は男たちを突き飛ばし、欄干へ登って屋根に手をかけた。“師傅”が怒鳴った。
「ひきずりおろせ!」
 廂に上げようとした脚を誰かに掴まれた。それを蹴りつけ、渾身の力を奮って屋根にのぼった。脚を掴もうとする者達を蹴り落とし、這いつくばって屋根を登った。瓦が音をたてて落ちていく。見上げた隙間の瑠璃色は、もうすっかり消えていた。夜は明けたのだ。“天”の隙間へ、“鬼”は思いきり腕を伸ばした。
「やめろ!」
 制止する男たちの声に抗い、“鬼”は、穴のふちに手をかけた。その脚に縄がかけられて、倒れそうになった時、虚空に向かって伸ばした腕を、誰かが掴んだ。

 強い力で側溝の穴から引き出され、“鬼”は地上に転がり出た。
 眩しさに目が眩み、そのまま倒れた。光が目を刺すようだった。目を閉じていても、その光は容赦なく“鬼”の中へ押し寄せた。
「どうした」
 すぐそばで声が聞こえた。
「具合が悪いのか?」
 その声に引かれるように、“鬼”は少しずつ、ゆっくりと瞼をあけた。
 光はまぶしく、痛いほどだ。
 地獄の火より、なお峻烈なまぶしさだった。
 しかし、“鬼”は目を見開いた。顔を覆っていた手を解くと、真っ白な光の中に、自分を覗き込んでいる人影が、ぼんやり見えた。
 やがて、影はゆっくりと像を結んだ。
 静かな眼差しで“鬼”を見守っているのは、深緑の袍を着た若い武人、壁に立った包丁を見つめていた人だった。
「蘭児、この人か」
 その傍らでは、ひとりの少女が微笑んでいた。
「ね、ほんとうだったでしょ、林兄さま」
 棗のような大きな瞳の少女だった。灯籠祭の日に見た、あの“鬼の目”だ。道に倒れたままの“鬼”の前に、少女は嬉しそうにしゃがみこんだ。
「わたし、“鬼”を見たって言ったのに、お父さまも陸さんも、信用してくれなかったの。でも、わたしも間違ってたわ」
 少女は笑って、手にした花のようなものを差し出した。
「ごめんなさい、“鬼”じゃなかった」
 それは赤い蜜をかけた山査子の串菓子だった。
 この上の世界で最後に見た、つやつやと輝く赤いもの──。
 いま再び、それに手を伸ばし、“鬼”は、光の中に立ち上がった。

 空が青い。
 それが空という名であることを、この時、まだ“鬼”は知らない。
 雲ひとつない青空というものを、初めて見たのだ。
 地下深くから、闇に残された鬼たちの声が聞こえた。
「行きやがれ──」
“天”は閉じ、それは地となった。
 地を踏んで、“鬼”は、光の中へ出て行った。


 陸游『老学庵筆記』に曰く──“京師ノ溝渠ハ極メテ深ク広大ニシテ、逃ゲ隠レタル者、甚ダ多シ。自ラ称シテ、此レヲ無憂洞ト為ス”

 繁華を極める東京開封地下の暗渠には、鬼礬楼と呼ばれる料亭がある。
 その厨房の奥の壁には、今も、一本の錆びた包丁が架かっている。“師傅”の竈には火が燃えて、次々と料理が作られる。
 最上階には“老板”が住み、月ごとに無人の宴が繰り返される。
 裏口の“黒河”のほとりには、一条の細い光が差し込み、名もなき一輪の花が咲いている。
 しかし、もう鬼礬楼の“鬼”はいない。
b0145843_23302894.jpg



「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」Kindle版好評発売中です!
b0145843_0492825.jpg


  「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]
第十巻は1月末に配信予定です。

b0145843_23354422.jpg
絵巻作家・正子公也、作家・森下翠、制作・株式会社キノトロープによる電子版『絵巻水滸伝』が、堂々の刊行開始!
価格は第一巻特別価格 99 円!
第二巻以降は400円です。

すでに書籍をお持ちの方も、持ち運びに便利な電子版をぜひご利用ください。

※ご利用可能な端末
  Kindle Paperwhite
  Kindle Fire
  Kindle Fire HD
  Kindle for iPad
  Kindle for iPod Touch
  Kindle for iPhone
  Kindle for Android

iPhone / iPad, Androidでお読みになる方は
         ↓
(1)お手持ちの端末にKindle閲覧用の無料アプリをダウンロード
(2)Amazonで書籍を購入

    「絵巻水滸伝 第一巻 伏魔降臨」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第二巻 北斗之党」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第三巻 血戦鴛鴦楼」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第四巻 清風鎮謀叛」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第五巻 天魁星受難」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第六巻 祝家荘風雲」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第七巻 軍神独歌行」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第八巻 替天行道」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]

   『株式会社ブックファン』さんのホームページ


b0145843_18581166.jpg
  我々は決して負けない!! All Men Are Brothers          梁山泊一同

被害に遇われた皆さまに、心よりお見舞い申しあげます。被災地の復興をお祈り致します。

東北地方太平洋沖地震消息情報検索
日本語、英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の5カ国語に対応しています。


  
[PR]

by suiko108blog | 2014-01-09 00:00 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(6)
2014年 01月 08日
鬼礬楼の鬼(二)
                  (二)

 客は、“上”では名の知れた侠客だという触れ込みだった。金持ちを何人殺したとか、どこそこの大臣の屋敷に不義の財を盗みに入ったとか、“下”ではありふれた“箔”を、雄鶏のとさかのように振りかざしていた。
「まったく上の世界は糞の山だ。馬鹿野郎が金を稼ぎ、能無しが大臣の椅子にそっくり返っている。まともな奴は一人だっていやしねぇ。地べたに這いつくばった乞食だの、頭を下げるしか芸のねぇ意気地なしだの……あんなところで、よく生きていたもんだ」
“こっち”に来てせいせいする──と、その“侠客”は浴びるように酒を呷った。誰も相手にする者はいなかった。
 男はさんざん“上”に悪態をつき、その種も尽きると、料理に文句をつけはじめた。“鬼”が作った水煮肉が、辛すぎると怒り始めたのだ。
 料理人を出せと騒ぐので、仕方なく“鬼”が出ていった。“師傅”は仕入れに行っていなかった。
“侠客”は泡を飛ばして罵ったが、“鬼”は口がきけないから、ただ黙って突っ立っていた。“侠客”ますます怒って、喚きながら皿を床にたたき落とした。
「こんな糞のようなものが食えるか!」
“師傅”が帰ってきたのは、その時だった。
“師傅”は真っ直ぐに厨房に入り、壁にかかったあの錆び包丁を持って戻ってきた。それを無言で“侠客”の卓に叩き込んだ。
“老板”は家具にも凝るから、欅製のしっかりした卓だった。それが、ぱっくりと二つに裂けた。
「こいつが何人の血を吸ったか知りたいか?」
 ぽかんとする“侠客”に、“師傅”は、ひどく落ち着いた声で言った。
「うちの料理に文句をつけるとは、結構な舌をお持ちだ。そいつで汁を作ったら、さぞ旨かろう」
 いつも怒鳴り散らしている“師傅”が、そんな静かな声で話すのを、“鬼”は初めて耳にした。
“侠客”は、網にすくわれた鯉のように口を二三度ぱくぱくとして、そそくさと店を出て行った。客は、誰ひとり気にしもしていなかった。ただ、耳障りな芝居が無事に終って、めでたしめでたし──という顔だった。
“鬼”は、師傅は親切だなと思った。
“師傅”はあの客を殺してもよかったのだ。
“無憂洞”の掟はひとつ。自分のことは、どれだけ嘘で飾りたて、法螺をふいて自慢しても構わない。しかし、他人の“自慢”にケチをつけるのだけは御法度だ。
 それなのに、“師傅”は“侠客”を見逃してやった。同時に、自分の料理に──自分の弟子の料理にケチをつけるような奴は、殺す価値もない馬鹿だと、そう示した。
“無憂洞”では、殺されるより、殺されない方が不名誉な時もあるからだ。
“鬼”がそんな事を考えていると、“師傅”は拳を振り上げた。
「さっさと床を掃除しろ!」
“鬼”は、“師傅”が別に好きではなかったが、そういうところは、嫌いではなかった。
 事件といえば、そんなものだ。
 鬼礬楼に来て、十年以上。厨房だけが“鬼”の世界であり、料理だけが日常だった。
 心を動かされることは何もなかった。毎日、来ては帰っていく客は、愉快な客にしろ、不愉快な客にしろ、“鬼”にとっては“黒河”を流れていく芥のようなものだった。
 ただ一人、“詩人”を除いて。
 そもそも“詩人”は毎日のように店には来るが、“客”ではなかった。なぜなら、金を払わない。
 ごま塩の髪もまばらな老いた詩人は、洗い晒しの布衣をまとった背中をまるめ、杖をつきながらゆっくりと店に入ってくる。決まって看板間近の明け方だ。いつもの一階の隅に座ると、片目の給仕が“師傅”の言いつけで銚子を一本つけてやる。
 ゆるりと温めた酒を、詩人はいかにも旨そうに呑む。
 一文で買える塩豆さえ頼まず、酒だけを満足そうに嘗めている。
 やがて微醺を発すると、詩人は鳩のような声で低く呟く。“鬼”には意味のわからない言葉──それは、“詩”だ。
 意味のありそうで、よく分からない詩を読むので、老人を占い師のように思っている者たちもいた。詩人が呟いた言葉や、書き散らした詩の言葉で、はっと迷いが晴れたり、商売がうまくいったりするのだという。
 だから、詩人が店にくると、たいてどこからか塩豆の皿が届いた。ありがたいご利益があれば、肉や魚がつくこともある。
 あいにく何もない時は、“鬼”が料理を取り分けて、詩人の卓に置いてやる。詩人は特に礼は言わない。ただ、哀しげな目をわずかに細める。
 そして、いつかお前のために詩を作ってやるからな──と呟くだけだ。
 しかし、“鬼”が鬼礬楼に来て十年たっても、詩人はまだ“鬼”の詩を作ってくれない。

 その日、五毒皇后は機嫌がよかった。“詩人”に酒と料理をおごり、自分も向かいの席に座った。
 五毒皇后は、おそろしく美しい女だが、紅の衣の高官ばかり二十六人も殺したという噂だった。無憂洞の売春宿の元締めで、この世界の男たちが稼ぎだす金の大半は、皇后のもとに流れ込んでいくと云われている。いつもは着飾った芸妓たちを女官のように引き連れているが、鬼礬楼に来る時だけは一人だった。
 男たちは五毒皇后を恐れていたが、“鬼”は恐れてはいなかった。野菜彫りを覚えたはじめた子供の頃、百合の簪を見せてくれたし、錦の裳の牡丹柄を足元に座り込んで見入っていても怒らなかった。“師傅”が“鬼”を厨房に連れ戻さなかったら、裳の中にまで潜り込んでいたかもしれない。師傅はあきれて、“鬼”を殴った。
「人間なら、相手が天子でも容赦しない女だぞ。しかし、まあ、犬猫や金魚なんぞには、妙に情をかけるところがあるからな……」
 あるいは“鬼”も、そっちの仲間だと思っていたのだろう。
「──ほんとうにねぇ」
 五毒皇后は器から水晶海老をすくいあげては、紅を塗った爪先でぱちぱちと殻を割り、詩人の小皿に置いてやった。
「宝の山と思ったら、とんでもないゴミタメだったのさ」
「いやいや」
 透き通った玻璃の杯で、“詩人”は五毒皇后に一杯の酒を献じた。
「ゴミタメに咲く花のほか、見るべき花のあるやらん」

 その日は、下働きの“老不死”が腰を痛めて休んでいたので、“鬼”が厨房の後を片づけ、籠に入れた残飯を“黒河”まで捨てにいった。
 鬼礬楼のごみ捨て場は、店の裏、無憂洞を貫くように流れる下水、“黒河”のほとりに作られている。囲いもないところに捨てるだけだが、よそに比べればきれいなものだ。捨てるはしから、鼠や野良犬、死にかけた病人や、無憂洞でさえ食えない連中が集まって、争いあうように漁り食いしていくからだ。
 残ったものは、まとめて“黒河”に掃き落す。たまに野良犬と骨でも取り合って負けたのか、人が死んでいることがあるが、それも落す。
“黒河”は何もかも飲み込んで、ゆるゆると地の果てへと流れていく。
 無憂洞は、この河の両岸を中心に作られている。向こう岸の“街”に点々とともった灯が、ひとつふたつと消えていくのを、“鬼”はしばらく眺めていた。
 こちらの岸でも、街の灯がひとつずつ消えていく。
 地上に朝が訪れるころ、無憂洞には夜が来るのだ。
 そろそろ帰ろうとして、“鬼”は足元に花が落ちているのに気がついた。小さな白い花だった。捨てられた造花か、野菜の彫刻花だと思ったが、それは葉を広げ、茎を伸ばし、地面から頭をもたげていた。
“鬼”はぎょっとした。
 盆栽のようなものは鬼礬楼にも飾ってあるし、絵で見て花が“地面”から生えることは知っていた。しかし、実際に根を張って生きている花を見たのは初めてだった。

 翌日も、“鬼”は自分で残飯を捨てに行った。
 花はあまり元気がなかった。しゃがみこんで眺めていると、頭上から声が聞こえた。
「花には光が必要だ」
“詩人”だった。いつもの哀しげな目で“鬼”を見下ろしていた。
“鬼”はすぐに店に戻り、蝋燭を持ってきて花のそばに立ててやった。“詩人”の目が、さっきより、もっと哀しげになった。
「そんなものは役には立たん。本物の光でなければ」
“詩人”には、言葉がなくても“鬼”の心が分かるようだった。“詩人”は静かに頭を振った。
「哀れまむ──無憂洞にてあろうべきかな」
“詩人”は杖をつきながら、どこかのねぐらへ帰っていた。

“鬼”が厨房に戻ると、火の落ちかけた竈の前で、“師傅”が酒を呑んでいた。
「片づけもせず、どこをうろついていやがった!」
 いつものように怒鳴りつけたが、機嫌がよかった。残り火に照らされた顔が、こんがりと焼けた子豚のようだった。
「お前は見どころがある。俺が死んだら、お前が“師傅”と呼ばれることになる」
“鬼”は“師傅”に豚の脂身を肴に出し、厨房の奥にある寝床の中に這いこんだ。
 人一人がようやくもぐり込める穴蔵は、布団があるだけの“鬼の巣”だ。壁に穿たれた穴には、ちびた蝋燭が一本灯って、巣の中はぼんやりと暖かい。壁には、“鬼”が屑物の中から拾ってきたり、ある時は盗んできた花の絵や刺繍の切れ端、造花や彫刻が隙間なく張り付けられていた。
 蝋燭が消え、無憂洞に短い“夜”がやってくる。
 その夜は、妙に色鮮やかな、意味の分からない夢を見た。哀しい夢で、夢を見ては目覚め、また夢を見た。
 おかげで寝坊し、あわてて厨房に駆け込むと、片目の給仕が、昨夜、“詩人”が“黒河”に落ちて死んだことを教えてくれた。

 その日は、“百首門”の宴会が入っていた。
“鬼”は、いつもより早く寝床を抜け出し、包丁を手に、“黒河”のほとりにある柵へ向かった。柵の中には、鶏がたくさん入れられている。
 鬼礬楼では、牛や豚、羊といった大きな肉は“上”から仕入れる。しかし、鶏や兎のような小さなものは生きたまま仕入れ、この柵で“出番”を待たせている。
“鬼”は屠殺の名人だった。
 その技を、特に念入りに“師傅”から叩き込まれた。どうせ殺して食うにしても、一発で苦しませずに殺してやれ──それが“師傅”の教えである。
 だから、もし本当に“師傅”が礬楼の美妓を殺したとしても、女は苦しまずに死んだだろう。それとも、女があまりに苦しんだので、そう思うようになったのだろうか。
 いずれにしろ、“鬼”の研ぎ澄まされた包丁は、次々に鶏の首を落していった。
 何も知らずに餌をついばんでいる鶏に包丁をさっと振り下ろす。鶏は、走ってぱたりと倒れる。大きな籠に胴体を、小さな笊には首を投げ込んでいく。
 中の一羽が、柵から首を突き出していた。あの花を突つこうと、嘴をせいいっぱい伸ばしている。“鬼”があわてて包丁を投げると、胴体は倒れ、首は嘴を伸ばしたまま、柵の外にぽとりと落ちた。
“鬼”は、花の無事を確かめようとした。
 小さな白い花に伸ばした指が、血で真っ赤に濡れていた。鶏から流れ出た血が河となり、花の方へと流れていた。
 その時、無憂洞のどんな腐臭にも慣れた“鬼”の鼻に、生臭さが襲いかかった。吐き気を感じて、“鬼”はその場に立ちすくんだ。
 足もとに、何も知らない鶏どもが群がっている。
 血の河のほとりで、花は白く輝いている。
 檻の中で、血にまみれ、“鬼”は、しばらく呆然と佇んでいた。
 花は、本当に白く輝いていた。
 闇の中に、小さな花だけが淡く浮かび上がっている。
“鬼”は、頭上に広がる底無しの闇を見上げた。
 花が光っているのではなかった。
 なにも見えぬ闇の彼方から、白く薄い紗の帯のようなものが、音もなく降ってくる。手を伸ばしても感触はなく、熱もなく、本当にあるのかどうかもわからない。
 しかし、確かに、“それ”はあった。
 それは──真っ暗な“天”のどこかから音もなく射す、一条の細い光だった。

     明日の第三回に続く…。

b0145843_0492825.jpg
「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」Kindle版好評発売中です!

  「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]
第十巻は1月末に配信予定です。

b0145843_23354422.jpg
絵巻作家・正子公也、作家・森下翠、制作・株式会社キノトロープによる電子版『絵巻水滸伝』が、堂々の刊行開始!
価格は第一巻特別価格 99 円!
第二巻以降は400円です。

すでに書籍をお持ちの方も、持ち運びに便利な電子版をぜひご利用ください。

※ご利用可能な端末
  Kindle Paperwhite
  Kindle Fire
  Kindle Fire HD
  Kindle for iPad
  Kindle for iPod Touch
  Kindle for iPhone
  Kindle for Android

iPhone / iPad, Androidでお読みになる方は
         ↓
(1)お手持ちの端末にKindle閲覧用の無料アプリをダウンロード
(2)Amazonで書籍を購入

    「絵巻水滸伝 第一巻 伏魔降臨」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第二巻 北斗之党」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第三巻 血戦鴛鴦楼」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第四巻 清風鎮謀叛」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第五巻 天魁星受難」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第六巻 祝家荘風雲」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第七巻 軍神独歌行」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第八巻 替天行道」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]

   『株式会社ブックファン』さんのホームページ


b0145843_18581166.jpg
  我々は決して負けない!! All Men Are Brothers          梁山泊一同

被害に遇われた皆さまに、心よりお見舞い申しあげます。被災地の復興をお祈り致します。

東北地方太平洋沖地震消息情報検索
日本語、英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の5カ国語に対応しています。


  
[PR]

by suiko108blog | 2014-01-08 00:00 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(0)
2014年 01月 07日
鬼礬楼の鬼(一)
鬼礬楼の鬼

 闇の底で鬼が哭いていた。
 声もなく、無数の鬼がのたうっていた。
 しかし、耳を傾ける者はなく、一瞥を向ける者もいなかった。
 地獄では、鬼も、鬼の慟哭も、何ら珍しいものではない。
 千億の鬼の慟哭よりも、ひそやかに咲く一輪の野花の方が、たじろぐほど珍しく──恐ろしいのだ。

                  (一)

 暗闇は、地獄のように熱かった。
 ごうごうと音を立てて竈が燃え、吹雪のように茜色の火花が散っていた。その業火が、洞窟よりも暗いこの場所に、僅かな光をもたらしていた。
 光もまた、地獄のように熱かった。
 煮えたぎる油の中に、鱗を剥がれた巨大な魚が投げ込まれ、隣では、分厚い脂がのった豚肉が醤油の中でてらてらと煮えている。
 奥の窯では、何匹もの家鴨が絞首刑になった罪人のように首から吊るされ焼かれていた。
 影絵のような料理人が包丁を片手に蠢き、幽霊のような給仕たちが無言で行き交う。家鴨を焼く竈の横には、この店の料理長である“師傅”が愛用の竹椅子に腰掛けていた。
 最も上等の豚よりも、肥満した男である。小柄だが、からだ全体についた脂肪のためか、少しも小柄という感じはしなかった。
 時刻は、店が繁盛しはじめる頃合いである。
“師傅”は家鴨の焼き加減を確かめると、片足をひきずりながら洞窟のような厨房を出て行った。出た先も、また隧道のような廊下である。レンガや材木、岩や得体のしれない廃材を積み上げてできた廊下を、“師傅”はゆっくりと通っていった。やがて、廊下は真っ黒な流れをまたぐ橋になり、橋を渡ると、あたりが急に明るくなった。
 橋の先には、巨大な洞窟を支えるように、一軒の楼閣がそびえている。
 朱や金で塗られた欄干、青や黄色の瓦屋根、花飾りや提灯、灯籠、あらゆるもので飾りたてられた、華麗にして歪な大酒楼である。
 入り口には、黒字に黒漆で店の名が記されていた。
『鬼礬楼』
 この楼閣こそ、地獄の苦海に咲き出でた、最も毒々しい蓮華であった。

 宋国の都・東京開封の地下深くには、広大な暗渠が隠されている。
 繁栄を極める地上の都から、その栄華にふさわしからざるものたちが流れ込んでくる場所である。汚水、汚物、塵芥、死骸──死骸は動物もあれば、人間のものもある。人間は、生きたものも毎日のように流れ込んでくる。人殺し、盗賊、物乞い、攫われた女や子供、借金やいざこざから逃げて来た者。いずれも名を持たず、過去も持たない。
 人は、この地下の世界を、『無憂洞』と呼んでいる。誰が呼び始めたのか、冗談か、諧謔か、 嘲笑か、あるい本心だったのかは分からない。
 ともあれ、たとえ憂いはないにしても、住人も人であるから、食わねばならない。
 商売は盛んだ。地上では夜しか立たぬ鬼市が終日にぎわい、盗品や武器、毒、人間、あらゆる物を売っている。料理屋、酒楼も軒を並べて、あらゆる珍味、得体の知れない料理の皿を出している。
 その中でも、一番の格式を誇る料亭が、この“鬼礬樊”なのである。
 天子も通うという地上の“礬楼”と同じ三層の高楼は、足元の地獄を見下ろし、その屋根は暗闇に消えていた。
 もっとも、“鬼礬楼”の名は伊達ではない。
 厨房を仕切る“師傅”は、上の“礬楼”で包丁を握っていた男だから、味は確かだ。材料もいい。すべて極上の盗品だ。大臣の屋敷や、皇族の別宅、時には宮城からも盗んでくる。地下の下水は、蟻の巣のように東京中に張りめぐらされているから、出入りの“卸し業者”に頼めば、いつでも、どこからでも自由自在に“仕入れ”ができるのだ。

“師傅”は、賑わう店の階段を登っていった。
 地上の店なら、高層階こそ値が張るが、地下では一層こそ上等である。暗闇に棲む者たちは、地上に近づくことを恐れ、忌む。今日の上客は、“乞食大将”、“百人殺し”、“五毒皇后”、下客は有象無象の者たちだ。宴会場は“没面盗行”の総会で、覆面をかぶった連中が賑やかに乾杯するさまは芝居のようだ。
 階段を登る“師傅”の足音は、葱を刻む音に似ていた。
 階段を登りきった三層の上にも、小部屋がある。“師傅”は隠し階段を使い、その最上階まで登っていった。
「店が立て込んできましたんで……そろそろ“鬼”を戻していただけませんか」
“師傅”は遠慮がちに扉を叩いた。
「──もう少し待ちなさい」
 閉じられた扉の向こうから、声が応えた。
「最後の仕上げだ」

“無憂洞”では、より多くの人を殺したか、より多くの財を盗んだ者こそ“英雄”だ。しかし、どんな客も、鬼礬楼の“老板”より多くの人を殺し、財を盗んだ者はあるまい──そう囁かれていた。
 この部屋に起居しているのが、その英雄“老板”である。
 部屋一杯に並べられた食卓には、あらゆる料理が所狭しと並べられていた。東京中の料理屋の菜譜を出現させたようだった。野菜と大蒜を炒めただけの素朴な家庭料理から、豪勢な子豚の丸焼き、西北の粉物、南方の海鮮、四川の辛味料理から、広東の甘味料理。蛇や虫の珍しい料理もあった。
 揚げ物から香ばしい香りが立ち上り、汁からは湯気がたなびいている。酒の燗もつき、菓子や果物も器に積み上げられている。椅子が並び、茶碗、箸、小皿に酒器が添えられて、足りないものはなにもない。
 しかし、“客”は一人もいなかった。
 これは“忌辰宴”なのだ。命日に故人の好物を並べ、死者を弔う。
“老板”は官服を身につけ、主人の席に座っている。冠の下の顔は柔和である。眉と髪もすっかり白い。黒檀の椅子に置物のように端座している。しかし、不思議と老いたという雰囲気はなかった。
 部屋には、もうひとり“鬼”がいた。
 これだけの料理を一人で作り、いま、最後の仕上げとして料理に飾る野菜の花を彫っている料理人である。
 鬼礬楼の“師傅”の一番弟子──“鬼”は陰気な目を伏せて、無心に包丁を操っている。顔色は悪く、表情もない。年齢はまだ若かったが、年老いた“老板”よりも、生きているという感じがしなかった。
 しかし、その包丁の先から次々に創り出される花は、精巧で、生き生きとしており、本物の花のようだった。
 何もかも揃っているこの闇の世界に、ただひとつ足りないものが、本物の花である。透き通るように薄い花弁、瑞々しい葉は、夢の中にしかないものだ。それを、“鬼”は包丁一本で作りだす。
“師傅”は、瓜と赤蕪で作られた見事な花々を指先でつまみ、五彩涼皮の盆に置いた。
「見たこともねえくせに、よく作る」
 この技を教えたのは“師傅”だ。しかし、いまは“鬼”の作る花の方が上等だ。“師傅”は記憶を頼りに作ったが、“鬼”は鬼礬楼のあちこちに飾られている絵や造花を見て研究し、種類も多いし、まったく、本物よりも本物のようだった。

 最後に彫りあげた大根の牡丹を肉料理の皿に置き、“鬼”は“老板”に目礼した。
 これで料理は完成だ。
“老板”は頷き、“師傅”に向かって、指先を軽くもたげた。去れ──の合図だ。一人の客も迎えぬままに、扉が閉じた。
 これから、“老板”と死者たちとの宴会が始まるのである。

 今日は、“老板”の同志たちの命日だった。
“無憂洞”の星の数ほどいる人殺しの中でも、“老板”ほど大勢殺したものはあるまい。槍も刀も毒も使わずに殺し、“老板”自身、その数を知らないほどだ。
 死刑場で、戦場で、牢で、街路で、誰にも知られぬどこかの闇で、“老板”の若い同志たちは殺された。天子を殺し、国を奪おうとした──と、聞いていたが、“鬼”には、国というものが分からない。
 彼の世界は、この“無憂洞”だけだからだ。
 こんな地獄が欲しい者など、いるものだろうか。“鬼”には不思議でたまらない。
 手に入れて、どうするというのだろう。“鬼”にはまったく分からない。
“鬼”の記憶は“無憂洞”の闇で始まり、“鬼礬楼”以外の世界を知らない。親もなく、家もなく、いつの間にか“鬼”と呼ばれ、それが名だ。
 石段の前でぼんやりと立っていたような記憶があるが、夢かもしれない。見知らぬ女が、なにか赤い花のようなものを持って手招きして──それもまた、夢かもしれない。
 はっきりした最初の記憶は、“人肉市”だ。地下倉に大きな檻がいくつも並び、中には子供がたくさん入れられていた。
 別の檻には赤ん坊がぎっしり詰められ、泣いていた。
 地下倉には、時々、大人がやって来て、子供たちを選び、一人二人と連れて行った。夫婦もいれば、恐ろしい顔をした大男もいた。主な客は転売屋の老婆たちだった。
 やがて、客足が落ち着いて、檻には売れ残りの子供ばかりが残された。顔だちのよい赤ん坊、聞き分けのよさそうな幼児から売れていき、残ったのは、五、六歳を過ぎた、特に目立ったところのない平凡な子か、扱いにくい“元気”な少年たちだった。
 ある日、片頬に瘤のある売人が、せむしの手下を呼びつけた。
「売れ残りを、まとめて“要飯王”に叩き売れ!」
“要飯王”とは乞食頭だ。無憂洞から“上”の世界に稼ぎに行く、無憂洞の稼ぎ頭だ。
 その日は、珍しくご馳走だった。堅い饅頭か、薄い粥ばかりだったのが、蒸したての大きな包子が出た。
 腹をすかしていた子供たちは、熱々の包子をいくつも口におしこんだ。喜んで一口かむと、中から煮えたぎる油の汁が溢れ出て、穴蔵に悲鳴が響いた。
 それきり、泣き声さえでなくなった。
 売人は、鼻で笑った。
「お前たち。逃げたり、人に助けを求めたりは御法度だぞ。逃げれば足を折られるし、怠ければ目を潰される。脅しじゃねぇぞ」

“鬼”は痛みに疲れ果て、檻に敷かれた腐った藁の上に横たわっていた。そこに、最後の客がやってきた。大きな声の男だった。
「くそっ、せっかく仕込んだ小僧に死なれた。骨のありそうな奴はいないか」
 さかんに文句を言いながら、次々と檻を覗いていった。太った猪首の男だったが、動きはやけに機敏だった。
「ろくなのが残っていねぇ。死んだ魚より生きが悪いぞ」
 売人は、もう商売する気もないようだった。
「来るのが遅かったんだよ、次の“仕入れ”は来月だ」
「こいつはいくらだ」
 思わず目を上げた“鬼”と、立ち止まった客の目があった。
 売人が大儀そうにやって来た。
「もう“湯包包”をやっちまった。店じゃ使い物にならねぇよ」
「いい塩梅だ」
 客は懐から財布を出した。
「俺は無口なガキが好きなんだ」
 それが、鬼礬樊の“師傅”だった。


 その日から“鬼”は厨房に閉じ込められ、雑用から始め、野菜の洗い方、鍋の磨き方、包丁の握り方を教えられ、十年かけてあらゆる料理を叩き込まれた。裏に残飯を捨てにいく以外、厨房から出ることは全くなかった。
 その厨房の漕げた壁には、一本の錆び包丁が架かっていた。“鬼”がある時、研ごうとしたら、骨が砕けるほど殴られた。
 後で、下働きの“老不死”が、“師傅”が昔に礬楼で使っていた包丁だと教えてくれた。この包丁で礬楼一の美妓の首を落したとか、それをばらばらにして、料理して、間男に食わせたという噂もあるという。
「あの人は、なんだって“料理”しちまうからな」
“老不死”はそんなことを言ったが、“鬼”知る限り、“師傅”が料理するのは、まっとうな肉だけだった。
 鬼礬楼の厨房では、どんなに仕入れがきつい時でも、“両脚羊”は使わない。また、豚に人の乳を飲ませたり、家鴨を生きたまま焼くような調理法も、外道として禁じられていた。
 どちらも鬼礬楼の主人──“老板”の意向である。

 鬼礬楼での毎日は、料理を作るか、殴られるかしかなかったが、逃げようとは考えなかった。“無憂洞”以外に世界はないのだ。
“上”という世界があるらしかったが、どこにあるかは分からない。そこがいいとも思えなかった。絵でみると綺麗な所らしいが、“師傅”や“老板”、客達の話を聞くかぎり、美しいのは上辺だけ、“無憂洞”よりずっと恐ろしい場所だった。
 それなのに、彼らが懐かしげな、誇らしげな、憧れるような顔つきや声で話すのが、“鬼”には不思議でならなかった。
 殴られながら、一通りの料理を覚えた頃、鬼礬楼に、新顔の客がやって来た。

     明日の第二回に続く…。

b0145843_0492825.jpg
「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」Kindle版好評発売中です!

  「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]
第十巻は1月末に配信予定です。

b0145843_23354422.jpg
絵巻作家・正子公也、作家・森下翠、制作・株式会社キノトロープによる電子版『絵巻水滸伝』が、堂々の刊行開始!
価格は第一巻特別価格 99 円!
第二巻以降は400円です。

すでに書籍をお持ちの方も、持ち運びに便利な電子版をぜひご利用ください。

※ご利用可能な端末
  Kindle Paperwhite
  Kindle Fire
  Kindle Fire HD
  Kindle for iPad
  Kindle for iPod Touch
  Kindle for iPhone
  Kindle for Android

iPhone / iPad, Androidでお読みになる方は
         ↓
(1)お手持ちの端末にKindle閲覧用の無料アプリをダウンロード
(2)Amazonで書籍を購入

    「絵巻水滸伝 第一巻 伏魔降臨」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第二巻 北斗之党」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第三巻 血戦鴛鴦楼」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第四巻 清風鎮謀叛」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第五巻 天魁星受難」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第六巻 祝家荘風雲」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第七巻 軍神独歌行」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第八巻 替天行道」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]

   『株式会社ブックファン』さんのホームページ


b0145843_18581166.jpg
  我々は決して負けない!! All Men Are Brothers          梁山泊一同

被害に遇われた皆さまに、心よりお見舞い申しあげます。被災地の復興をお祈り致します。

東北地方太平洋沖地震消息情報検索
日本語、英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の5カ国語に対応しています。


  
[PR]

by suiko108blog | 2014-01-07 00:00 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(0)
2014年 01月 06日
予告!
いよいよお正月休みも終わり、学校、お仕事がはじまりますね。
『絵巻水滸伝』は来月からweb連載再開の予定です。
その前に、お正月特別企画、書き下ろし外伝を公開します!

明日から三回連載です。主役は誰でしょう?
どうぞお楽しみに!


b0145843_0492825.jpg
「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」Kindle版好評発売中です!

  「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]
第十巻は1月末に配信予定です。

b0145843_23354422.jpg
絵巻作家・正子公也、作家・森下翠、制作・株式会社キノトロープによる電子版『絵巻水滸伝』が、堂々の刊行開始!
価格は第一巻特別価格 99 円!
第二巻以降は400円です。

すでに書籍をお持ちの方も、持ち運びに便利な電子版をぜひご利用ください。

※ご利用可能な端末
  Kindle Paperwhite
  Kindle Fire
  Kindle Fire HD
  Kindle for iPad
  Kindle for iPod Touch
  Kindle for iPhone
  Kindle for Android

iPhone / iPad, Androidでお読みになる方は
         ↓
(1)お手持ちの端末にKindle閲覧用の無料アプリをダウンロード
(2)Amazonで書籍を購入

    「絵巻水滸伝 第一巻 伏魔降臨」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第二巻 北斗之党」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第三巻 血戦鴛鴦楼」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第四巻 清風鎮謀叛」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第五巻 天魁星受難」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第六巻 祝家荘風雲」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第七巻 軍神独歌行」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第八巻 替天行道」 [Kindle版]
    「絵巻水滸伝 第九巻 大戦梁山泊」 [Kindle版]

   『株式会社ブックファン』さんのホームページ


b0145843_18581166.jpg
  我々は決して負けない!! All Men Are Brothers          梁山泊一同

被害に遇われた皆さまに、心よりお見舞い申しあげます。被災地の復興をお祈り致します。

東北地方太平洋沖地震消息情報検索
日本語、英語、韓国語、簡体字中国語、繁体字中国語の5カ国語に対応しています。


  
[PR]

by suiko108blog | 2014-01-06 00:39 | 絵巻水滸伝・外伝 | Comments(0)